講社めぐり

〜講社(こうしゃ)とは〜

「講(こう)」とは宗教・経済・社交上の目的を達成するために組まれた結衆集団のことをいいます。
神を敬うことは当然のことながら、祭りに物や音楽・芸能を奉仕・奉納することを目的に結成され、継続的に活動している団体です。
講ということばは、もともと仏教で仏典を講説する「講経」に由来しています。
平安時代には法華経を購読供養する「法華八講」がさかんに行われましたが、やがて一般化して自然崇拝にもとづく山神講・龍神講、神社の氏神講・宮座講、経済的な理由から頼母子講、職人達のふいご講などさまざまな結衆集団が生まれます。
江戸時代に入るとますます各地で講はさかんに結成されました。
大阪天満宮を崇敬し、奉仕するために天神講・丑日講・万人講・菅人講・音楽講・神酒講・御供講などたくさんの講がつくられ、その講の長である「講元(こうもと)」が各講社を束ねています。
なお、太鼓中のみ講名は使っていません。が内容は講と全く同じです。
出典:「天満宮社報抜粋(講社めぐり)」
以下に、いくつかの講社をご紹介します。(あいうえお順)

丑日講(うしひこう)

寛延4年(1751)2月7日に「五郎兵衛」を会頭として結成。
当初は菅原道真公の御所有と伝承される御太刀を捧持したが、現在は伊勢神宮から拝領した古太刀を使用している。
かつては、天満宮の裏門筋に営業していた呉服古着、太物卸商、蒲団商等の有志組織であったが、昭和53年から大工町丑日講として町会が運営することになった。
陸渡御では、御太刀を捧持するほか、高張提灯4本、金棒2本を持ち、お供8〜10人が行列に参加。
戦後数年間は、この行列に太刀の箱をかつぐ者が加わっていた。
講員は大工町の町会員で構成され、町会長が講元を兼ね町会の運営と講の保全につとめる。

大阪書林御文庫講(おおさかしょりんおぶんここう)

万延2年(1861)、「書林講」という名称で天神祭に初めて参加した。
講の歴史は享保15年(1730)、学問の神様として信仰厚い大阪天満宮に御文庫が建てられたことに始まる。
御文庫とは、出版を行っていた開版業者が、御加護を記念して神前に奉納した初摺りの書籍を納める保管庫のことで、天満宮御文庫講という組織が運営した。
その後、住吉大社の御文庫講と合併して「大阪書林御文庫講」となった。
陸渡御には講員20名がそろいの裃(かみしも)を着て、菅原道真公が御旅所でお読みなる本を載せた「文車(ふぐるま)」のお供をする。
船渡御には大阪書林御文庫講供奉船に関係者約200名が法被姿で乗り込む。

大阪天満ライオンズクラブ奉仕講(おおさかてんまらいおんずくらぶほうしこう)

大阪天満ライオンズクラブでは、国内外の学生を派遣し合う青少年交換事業を行っているが、同クラブのメンバーであった大阪天満宮の先代宮司が、日本の文化をより深く理解してもらうことを目的に、同事業によって来日した学生を天神祭に招待したいと提案したことが、当講発足のきっかけとなった。
昭和47年からライオンズクラブとして供奉船を出していたが、昭和55年に講社以外の供奉船は許可されなくなったため、当奉仕講を結成し、以後海外の学生を招待して好評を博している。
先代宮司の発案により、船の舳先には、御迎人形「羽柴(豊臣)秀吉」のレプリカを飾って、往時の御迎人形船の姿を再現している。

鳳講(おおとりこう)

戦前、鳳神輿は旧天神橋一丁目・地下町で守られていたが、戦後は、菅南連合八町会で奉仕することとなる。
その度菅南連合八町会は町名町域が変わり現在では天神西町と天神橋一丁目と菅原町の3つの町で構成されている。
神輿の上には、皇帝の誕生の瑞兆として出現するといわれる鳳凰の鳳がついており、そのためにこの名がある。
鳳を納める箱書には「弘化二年(1845)乙巳四月吉日」と記されているが、神輿は天保11年(1840)に江之子島車之町から奉納されたもの。
明治9年に御鳳輦が造られるまでは、神輿が御神霊の乗り物で、陸・船渡御の中心であった。

御船講(おふねこう)

御船講の前身は文政5年(1822)に結成されたが、その後、幾度かの変遷を経て、現在は㈱サンオーシャンがその任にあたっている。
講の役目は、台船および艀(はしけ)の手配と準備、そしてその安全運航をはかることである。
毎年天神祭の終了後、翌年の船渡御を再検討することから始まり、7月に入ると祭に参加する船を大川に浮かべて、点検・清掃、安全上必要とする柵を取り付けたりと、陰の仕事に徹底している。
また本番の船渡御では、夜間に大川の狭い水域を100隻余りの船が列をなして行き交う中、講員が細心の注意を払って常に危険予知の体制をとり、安全かつ定時刻運航に奉仕している。

御羽車講(おはぐるまこう)

昭和24年、天神橋筋2〜6丁目商店街と振興町会が、滋賀県坂本の日吉(ひえ)神社から「御羽車」を譲り受け、大阪天満宮への奉納した。
そして、御羽車をもとに講をつくろうと御羽車講が結成され、6ブロックで形成・運営している。
毎年7月23日正午に、天満宮御本殿にて御神霊を御羽車にお遷しする神事を行い、表門から商店街に入り巡行。
天神橋筋6丁目に設けられた斎場で駐輦祭(ちゅうれんさい)を行い、天神祭の無事斎行と商店街の繁栄を祈願した後、天満宮で還御祭を斎行する。
陸渡御では12人の白丁(はくちょう)が御羽車を曳き、菅笠をかぶった講員約50名が供奉。
この御羽車とは、平安時代の乗り物で、菅原道真公の乗用車とされる神具である。

御神酒講(おみきこう)

江戸時代の元文2年(1737)に結成された、天満郷の酒造業者の講「酒屋講」を起源としている。
幕末・維新後には一時途絶えたが、明治39年に再結成。
現在は、所在地にかかわらず、洋酒・ビール・酒造メーカーのほか、食品メーカー・卸売業者・酒販店などによって講が維持されている。
天神祭の渡御への御奉仕が講の活動の中心で、その際に講のシンボルとなるのが「猩々(しょうじょう)」である。
猩々は酒に浮かれて孝子高風を祝福して舞ったと伝えられる中国の霊獣。
赤熊(しゃぐま)、波模様の袴、菊模様の裲襠(うちかけ)を着し、右手に扇をもち、左手をかざした木像を飾った猩々山車(しょうじょうだし)を曳いて渡御列に参加する。

篝講(かがりこう)

末澤産業㈱による講。
天神祭の御神燈、大川に砂船を2隻定着させ、舞台船や川面を照らす篝船を奉仕している。
篝講創立は寛政7年(1795)で、当時は薪で篝が焚かれ、代々薪炭問屋が篝講を構成していた。
現在では、タイプの異なるLPバーナーをあわせて120基焚き、天神祭には延べ50人がその設営、保守管理にあたっている。

菅公会(かんこうかい)

昭和23年、かつては大阪一賑わっていた境内を利用して地域の復興を目的に始められた天神踊(盆踊)が母体となり結成された。
毎年8月25日〜27日に盛大に行われる盆踊りと並んで、天神祭への御奉仕が菅公会の大切な仕事である。
7月23日には「天神祭前夜祭inOBP」に会員約110名が参加し、京橋からツイン21まで天神祭囃子に合わせて踊りながらパレードする。
宵宮では、西区千代崎の御旅所へ向かい、同町内を踊り歩いて、天神橋6丁目から大阪天満宮までの商店街を踊り流す。
最後に、天満宮境内にて奉納舞を披露。
本宮では、陸渡御の最後を飾って境内を出発し、舞台船にて御神霊奉安船を御迎えし舞を奉納する。

吉備講(きびこう)

吉備講の創始年代についてはよく分かりませんが、最も古い歴史を持つ講の一つとされています。
大阪刺繍商工業協同組合の協力を得て毎年の活動を行っていますが、主なものは、毎年7月の天神祭への御奉仕と、11月の針供養ということになります。
天神祭への御奉仕としては、陸渡御に際して、提灯を持って渡御列にお供します。また、船渡御には、供奉船を用意し、約50名が乗船して、祭礼の雰囲気を盛りあげています。
当講の名の由来となった吉備社は、奈良時代の学者で政治家であった吉備真備(659~775)を祀っています。吉備真備は我が国の刺繍の始祖として、吉備社に祀られることになったのです。

供船講(きょうせんこう)

昭和28年頃より「砂船講」としての参加はあったが個人が運営するものであった。
昭和58年に大阪天満宮から砂船組合に船渡御への協力依頼があったことがきっかけとなり、講名を新しく「供船講」と命名され船渡御に参加、現在に至る。
講名の通り、鳳講・吉備講・丑日講・御羽車講・篝講の5講に船を供し、他に通船2隻、自らも2隻の船で船渡御に参加している。
砂船は大正中期頃から淀川・大川で土砂採取をしており、毛馬橋(けまばし)・天満橋(てんまばし)付近に繋船され、昭和10年頃には大阪府登録船艘数は300余りにのぼったが、現在では100隻を超える程度の数になっている。
採取された砂は船底に入れられ、船の重みを調整する役割をもつ。

敬神婦人会・采女講(けいしんふじんかい・うねめこう)

昭和31年に結成され、現在は役員20数名の女性だけの講。
宵宮では、鉾流神事の行列のお供や陸渡御などに奉仕している。
陸渡御には、一般から選ばれた10名の采女と、約40名の男女の稚児とともに渡御列に参加する。
采女講は戦前、八乙女(やおとめ)と呼ばれ、堀江・新町・北新地から8名ずつ選ばれた女性が、それぞれ室町時代・鎌倉時代・奈良時代というように、時代ごとの衣装をまとって趣向を凝らしてきたという。
着物に被衣(かずき)をまといしずしずと進む采女や、時代装束に身を包んだ可憐な稚児たちの姿は、男性陣のダイナミックな雄姿とは対照的に、時代絵巻さながらに観る者をを遠い世界へと誘ってくれる。

御鳳輦講(ごほうれんこう)

菅原町、樋上町などの氏子有志の講。
鳳輦とは、菅原道真公の御神霊を奉安する乗り物をいう。
渡御列は平安時代の天皇行幸の形式を模し、警護役の随身(ずいじん)2名に先導された御鳳輦の左右前後には、紫翳(むらさきかざし)が飾られ、後方には菅翳(すげかざし)を捧持した従者がつく。
蝋色塗りの神輿は屋根の頂きに鳳凰を飾り、屋形から紫の布を張り巡らし、興丁(よちょう)18名が古式ゆかしい衣装で粛々と曳いてゆく。
にぎやかな船渡御の船列のなか、御鳳輦奉安船だけは、雅楽の音色に包まれて神々しい空間を演出する。
多くの講が、祭礼の「動」の部分を担当するのに対し、御鳳輦講は神事の「静」の部分を演出している。
賑々しい群衆も、御鳳輦の通過時には本殿に向かうのと同じように参拝するという。

榊講(さかきこう)

由来は古く、文政6年(1823)の文献にその活動が確認できるが、「神木講(しんぼくこう)」という講名の初見は嘉永元年(1848)。
明治15年(1882)には、祭に大榊を献上したことが記録されている。
その様子は、大正10年(1921)に描かれた「夏祭渡御列図」「夏祭船渡御図」にもうかがうことができる。
その後「神木講」の名は途絶えるものの、昭和47年(1972)に榊会(さかきかい)が結成され、平成13年(2001)には渡御列に「榊講」が復興。
講員と(社)日本生花通信配達協会大阪地区連合会(花キューピットグループ)が、月2回天満宮末社へ定期的に榊を奉納するとともに、天神祭では大小300本以上の榊を奉じる。

地車講(じぐるまこう)

現在、天満卸売市場商業協同組合が母体となり、理事全員が地車講役員として、商人、市場関係者、地域住民が奉仕。
地車は寛永5年(1852年)に製造されたもので長らく境内の当屋に飾れていたが、平成元年(1989年)の宵宮に100年ぶりに宮出、表参道を曳行しました。

宵宮から本宮にかけて別名天満囃子、天神祭囃子と呼ばれるエネルギッシュな地車(だんじり)囃子を演奏する。
大太鼓・小太鼓・鉦の3種類が「カヤク」と呼ばれる。このカヤクは「てんま」や「さくら」など20種類を超える。
また、囃子にあわせての龍踊り(りゅうおどり:別名 蛇踊り、狐踊り)は、踊子たちの巧みな指先の動きに特徴がある。

江戸時代、氏子たちが神の降臨を祝い曳き出した地車は最盛期には70輌を超えたが、現在は「三ツ屋根地車」といわれる1輌のみ。
今や天神祭の唯一のだんじりとなっています。

太鼓中(たいこなか)

数ある講社の中で唯一「講」ではなく太鼓「中」と称し、最も古い由緒を持つ。
その「催太鼓(もよおしだいこ)」は豊臣秀吉からの拝領と伝えられ、近世初頭には太鼓中として成立していたようである。
太鼓中は役員のほか6名一組で太鼓を打つ36名の「願人(がんじ)」と1トンを超える太鼓中を舁く「舁き方(かきかた:略してカタ)それらを指揮する「采頭(ざいがしら)」と「采方(ざいかた)」で構成され、総勢600名が25日陸渡御の先陣をきる。
太鼓の打法は、願人が交替するときの「マーカ」や、四つ辻で打つ「ヨイヨイ」など十数種におよび、大阪府の無形文化財に指定されている。
中でもシーソーのように揺れながら打つ「からうす」は圧巻。
現在は、中央、東部、天満、茨木、木津の五つの卸売市場の人々が中心となっている。

玉神輿講(たまみこしこう)

玉神輿は、天保11年(1840)に江之子島東之町の町人中が船大工に発注して造らせたもので、その名の由来は、神輿頭部に宝珠がついていることによる。
昭和24年から江之子島の船大工の子孫が当時中央卸売市場の付属商組合長であったことが縁で現在も大阪市中央卸売市場本場で御守りしている。
昭和34,35年頃に本場全体で「玉神輿奉賛委員会」を組織し、市場内の12団体と5つの青年会が責任をもって運営している。
奉仕する5つの青年会の鉢巻きは、5色に色分け、総重量2トンの神輿を約150人の舁き手によって渡御を盛り上げている。
平成6年から団扇を奉じ、女性も参加している。平成12年より玉神輿講となる。

天神講獅子(てんじんこうしし)

毎年、400名を超える踊子によって、獅子舞・傘踊・四つ竹・梵天などの踊りをくりひろげ、祭の雰囲気を盛りあげる大集団。
天神講の歴史は江戸時代の寺子屋に端を発し、学問の神様である菅原道真公を信奉していた人々が講を作ったといわれている。
踊りが結びつくのは明治23年、古美術商仲間を中心に伊勢太神楽の神楽師を招き、講の子供達に踊りを教えて祭に参加したことによる。
2種類10頭の獅子が奉仕する獅子舞は、宵宮の日中、氏地をめぐる行事「神典(しんでん)」を行うほか、宮出と宮入の際、拝殿の前でダイナミックな舞を奉納し、巡行では傘をかざして華やかに踊る傘踊や、両手で竹片を打ち鳴らす四つ竹に混じって舞う。
行列の先頭に立つ梵天は体力と経験のある青年がつとめる。

どんどこ船講(どんどこふねこう)

船渡御の船列の中、唯一、手漕ぎの列外船として自由に航行できるどんどこ船で奉仕する講。
江戸時代後期には船渡御に欠かせない存在となり、幕末から明治初めの船渡御中止により衰退したが、戦後復興。
どんどこ船は、北海道や北陸の産物を入港してくる北前船に載せられていた「伝馬舟(てんまふね)」を利用して天神祭を見物したことに由来する。
現在は、長さ約17mの船体に梅鉢紋と唐草模様が描かれ、左右舵14丁ずつの漕ぎ手が、太鼓・鉦の10種類のリズムに合わせて櫂を漕ぐ。
平成12年から子供どんどこ船も参加している。

西天満連合神鉾講(にしてんまれんごうかみほここう)

西天満地域の旧15ヵ町で組織された講。
一時中断されていた由緒ある「鉾流神事(ほこながししんじ)」の復興が叫ばれた昭和5年に結成され、鉾流神事・渡御の奉仕をすることとなり現在に至る。
天神祭の始まりを告げる鉾流神事の主役といわれる神童は西天満小学校の6年生より選ばれ、7月初めより家に祭壇を設け朝夕身を清めて、宵祭、本祭に奉仕する習わしである。
また、陸渡御に参列する鉾は、鉾流神事で流される鉾を16倍にしたもので、木製の台車に乗せ地元の若人16名によって担がれている。
鉾は武器であると同時に神の依代でそこへ神様がおりてくるものであり、悪役を払う神器とされる。
神鉾の前で渡御の道案内をする猿田彦(さるたひこ)も神鉾講が奉仕するものである。

梅風講(ばいふうこう)

十数年に設立された比較的新しい講。
野田産業㈱が母体となり、供船講・御船講と共に、天神祭の船渡御に使用する船舶を供している。
船渡御では主に土木工事用の船舶を旅客船として改造し、近畿運輸局の臨時航行検査に合格した船だけを使用している。
梅風講では、土運船の通常土砂を積んでいるところに床を張って使用する。
この土運船を使用することになってから、桜宮橋の橋下の高さが低いため通ることができなかった御鳳輦・鳳神輿・玉神輿の三艘は、土運船の船首尾のタンクに水を満載して水面上の高さを低くしたことで橋下安全に通過できるようになった。
また、一般の人々に御鳳輦等がよく見えるように、油圧リフトの上に置き、橋の下を通過するときだけリフトを下げるといった工夫をしている。

花傘講(はながさこう)

当講は昭和29年に結成されました(前身は実信講)。地域有志の参加により活動しています。
天神祭には、神具である風流花傘を奉じて参加しています。この花傘は長柄のさしかけに、金襴の幕を垂らし、梅鉢の紋が錦糸で縫い取られた豪華な物で、4名がそれを奉持し、約50名の供奉者が従って渡御列に参加しています。

福梅講(ふくうめこう)

昭和24年に、旧此花町の有志により結成された。
結成年に茅輪(ちのわ)・唐櫃(からひつ)を奉じて渡御列に供奉、翌25年から、旧川崎東照宮の葱華輦(そうかれん)を奉じて供奉が数年続き、昭和32年頃からは牛曳童児(うしひきどうじ)を伴って渡御列に供奉するようになった。
牛は菅原道真公ゆかりの動物である。
祭に曳かれる牛は丹波篠山より借りてその背に花籠を乗せ、牛を曳く童児は男女2名の子供が奉仕する。

米穀商御錦蓋講(べいこくしょうおきんがいこう)

明治25年7月、米穀商有志による御錦蓋の奉納を機に設立された。
堂島にあった米市場を背景にした同業者から組織された講である。
結成時の「米屋講」時代を含めると、270年を越える歴史を誇り、現在存続している講の中で、古い歴史を持つ講の一つ。
享保9年(1724)、大阪三郷(天満組・北組・南組)2/3を焼き尽くし、大阪天満宮も全焼した「妙知焼け」の鎮火後、天満宮周辺の米穀商で組織する「米屋講」が再建奉加の募金活動を機に結成したことに始まる。
天神祭では、御御霊が他に移るときに必要な神具である錦の蓋(かさ)を白丁(はくちょう)が持ち、講員が供奉して渡御列に参加する。

北信友の講(ほくしんとものこう)

大阪北信用組合の組合員の親睦を目的とする「北信用友の会」を母体として結成された講。
昭和30年の「北信用友の講」結成時に、大阪天満宮へ御菅蓋(おかんがい)を新調献上した。
御菅蓋とは、御神体を覆い祀る神具であり、講員は御菅蓋を奉じて陸渡御に参加する。
当初は船渡御にも供奉していたが、現在は陸渡御にのみ供奉している。

御旗講(みはたこう)

明治20年頃に天満や、堂島北新地(きたのしんち)の料理屋を中心に、紅白錦旗、盾鉾を奉じる講として設立されたものと伝えられている。
大正10年の絵巻には、大提灯、紅白4本の錦旗盾鉾を捧持した行列の華麗な姿が描かれ、当講の隆昌がうかがえる。
戦後は、大阪料理組合連合会の協力を得て、大阪府下の料理組合の講社となる。
毎年天神祭を中心に新年神殿諸式、賀春初顔合わせなどの年中行事を行う。
陸渡御では、提灯を先頭に神具のひとつといわれる梅鉢と雲が描かれた金銀2本の錦旗を奉じて、約16人の講員が行列に参加する。
船渡御では、大きな2艘の船に350人余りの講員と関係者が乗り込みお供する。


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