御迎人形

江戸時代、大坂の淀川沿いには諸藩の蔵屋敷が立ち並び、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場と三大市場の繁栄とともに、天神祭は盛大化していきました。
その江戸時代前期、町人文化(元禄文化)が花咲く元禄期に、御旅所は常設されました。
この御旅所周辺の町々では、天神祭の様々な趣向を凝らした風流人形をこしらえました。これが、御迎船人形(御迎人形)の始まりです。
当時、船渡御を迎えるため、御旅所周辺の町々が祭礼に先立ち各町で飾り付け、祭り当日に船に乗せて御旅所から大川を上り、船渡御の一行を御旅所まで導く役割を担っていました。
この頃に登場した御迎人形は、七寸八寸(二・四m)ほどの大きさで、船上に立てた棒の先に高く飾り、大型の雪で照らしていましたが、享保期(1716〜36)頃から約一丈五尺(四・五m)の大型人形も作られたといいます。
御迎人形の多くが、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材としていました。
これらの人形は船上に設けられた舞台に人形をセットし、物語性が演出されるように工夫されました。
文楽人形の細工人たちが作った御迎人形には頭や手足を動かすカラクリがほどこされていました。
歌舞伎の見栄を切る人形もあれば恵比寿のように鯛を釣り上げる人形もありました。
また、御迎人形が必ず赤(緋)色を身につけているのは「疫病(疱瘡)祓い」という意味があります。

多いときには延べ数は50体を超えたといわる御迎人形ですが、現在は16体しか残っていません。
幕末・維新期の天神祭の中止や大戦の影響などにより人形数は減少してしまいました。
人形たちを支えた町はその姿を変え、戦後は人形が船に乗せられることもなくなったのです。
現在、毎年、天神祭の時期に天満宮境内と帝国ホテルのロビーなどに数体ずつ飾られています。

【現存する御迎人形】
三番叟・雀踊・安倍保名・与勘平・酒田公時・関羽・胡蝶舞・鬼若丸・八幡太郎義家・羽柴秀吉・猩々・素盞嗚尊・鎮西八郎・佐々木高綱・木津勘助・豆蔵・恵比寿(頭のみ)
「昭和48年、このうち14体が大阪府の有形民俗文化財に指定」

参考図書:「天神祭 火と水の都市祭礼」(大阪天満宮文化研究所編・思文閣出版)
     雑誌「大阪人」



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